鎌倉時代。最終的に勝ったのは平氏なのか?

タイトルの理由は最後に。

富士宮の上野地区では、「南条の里」というむらづくり活動が広がっています。

活動の詳細はこちら

なぜに南条かというと、鎌倉時代に、この地区の武将・地頭であった「南条時光(なんじょうときみつ)正元元年(1259年)-元弘2年/正慶元年5月1日(1332年5月25日)」にちなんでいます。南条七郎二郎時光、とも。

 

南条時光は非常に信心深く、日蓮宗開祖の日蓮上人、弟子の日興上人を支援し、現在の大石寺の開基檀那ともなった方です。上野殿、上野賢人殿とも称されました。

南条家の出自

南条家は伊豆国南条郷(現在の伊豆の国市韮山あたり)の出身。時光の父、北条家の御家人であった南条兵衛七郎が上野郷の地頭に転任(よーするに転勤)になったようです。一説によれば、兵衛七郎、またはその先代が、源頼朝の挙兵に功があったのも影響しているようです。

韮山にも北条・中条・南条という地名があり、上野にも「上条・下条」という地名が付けられ、命名法にも伊豆と繋がりがありそうです。

地名や近隣のお店にも南条店とか、今でもある

 

上野の4地区の地名。明治22年の合併前はそれぞれ個別の自治体・村でした。お寺の位置関係もわかりますね。下之坊は藤の花で有名で、そろそろです。

その南条さんですが、1265年に父、兵衛七郎が無くなると、時光はわずか7歳で家督を継ぎます。そりゃ、もちろん大きくなるまでは、一族の大人たちが後見人として世話してくれたわけで、その後、名実ともに、上野地区の名実ともに地頭らしい地頭として成長していきますが、彼が一番後世に大きな影響を与えたのが「南条一族はとても宗教熱心であった」という事です。

法華経の熱烈な信者であった南条一族。

身延山の日蓮上人が亡くなったあと、身延の地頭である南部実長(なんぶさねなが・波木井実長とも)とけんかして離山した日蓮の一番弟子、日興上人を迎え入れて、大石が原という一帯の土地を寄付して、大石寺(たいせきじ)の開基檀那(いわゆるスポンサーですね)となりました。日興上人は日蓮宗富士門派の祖となりました。

ちなみに、紆余曲折を経て、富士派が日蓮正宗という名前になったのはそんなに遠い昔ではなく、明治45年だそうです。

南条時光の妻「妙蓮尼」の供養のために自宅を寺として寄進して整備したのが大石寺の南にある妙蓮寺というお寺です。

日蓮宗系のお寺、富士五山と称される大きなお寺のうち、大石寺と、妙蓮寺が南条時光の寄進によるもの。(カッコ書きは2017年現在の宗派。)そしてまた、北山本門寺は、南条時光と、北山の地頭、石川能忠の両地頭の寄進によるもの。影響力絶大ですね。

上条大石寺(日蓮正宗)
北山本門寺(日蓮宗)
西山本門寺(単立・法華宗興門流)・・・信長の首塚でも有名
小泉久遠寺(日蓮宗)
下条妙蓮寺(日蓮正宗)

彼の墓所は下条宮の前(妙蓮寺の南西1km)にあり、昭和37年に石塔が建立されました。

大石寺や妙蓮寺は知っていても、南条時光の墓所は知らない人がほとんどだと思われますので、一応写真のっけておきます。

なんで三つあるかというと、時光の父・南条兵衛七郎と、母尼の石塔もあわせて建立されているため。元々同じ場所に埋葬されたわけではなく、後から移設された可能性が高いと言われています。

近くのバス停は「坂上南条入り口」となっており、地名等にも影響を与えています。

上野で活動している太鼓演奏団体「南条太鼓」も同様です。

伊豆・源氏・平氏・北条・・・

南条家の話を紐解いていくと、北条氏、伊豆との関係が非常に多いなあ、と感じるところが多々。

源頼朝が兵をあげたのも伊豆。富士宮の朝霧高原で「富士の巻狩り」を行った時に、馬を見分した事から、上野地区の馬見塚という地名ができたという説もあります。(あくまで一説です)

源頼朝といえば鎌倉幕府。源平合戦に勝って時の人となります。しっかしながら、三代源実朝12歳、後見人、執権として妻の政子さんの父ちゃん、北条時政が実権を握ります。その後、ここでは書ききれないほどの権力争いが起こり、実朝は暗殺されて、源氏の直系が絶えてしまいます。

桓武平氏の流れを汲む北条氏がその後、鎌倉幕府滅亡まで執権として政治を執ったわけですが

「それって、結局、あるいみ、源平合戦の勝者は源氏じゃなくて、平氏じゃないのか?」っていう気がするこの頃です。

北条時政 異説

もっとも、北条時政の系統の北条氏は出自を怪しむ説もあり、本当に桓武平氏の流れか?という突っ込みもあるようで、真実は謎です。北条時政の前半生もよくわかっていません。

(娘婿とはいえ)頼朝の挙兵で、平家方から源氏方へ鞍替え、親族で、ともに源頼朝を監視しあう関係だった伊東祐親とも袂を分かつ結果になったのも衝撃です。

なぜならば、時政の嫁さんは伊東祐親の娘(一説には妹)で、その息子、長男の北条宗時は伊東祐親に討たれているわけです。祐親からすれば、孫、または甥っ子を自ら手にかけているわけです。

身内争いが当たり前の時代なので、驚きはしない事なのかもしれませんが・・・?

逆に、時政が本当は桓武平氏の流れではなく、別の流れの系統、または渡来系などで、時の政権をとった一族に次々ととりいって、日本支配をもくろんだ意志を持った系統の出自だと仮定した場合、平氏から源氏への翻意も理解できる気がします。

まあ、末路を見ると、田舎の武将が単純に夢見ちゃっただけ、とも考えられなくもないですが(笑)

先ほど書いた実朝暗殺には、継室の牧の方(現在の静岡県沼津市大岡あたり出身の豪族、牧氏の娘または妹)が大きくかかわっているようです。権力欲が強い女性で、夫婦そろって、娘婿で武蔵守である平賀朝雅を据えようとして実朝暗殺を試みた事が露呈して、結果的に失脚、ドロップアウトしていく事になります。

平家全盛にありては、平家に執着し、源氏優勢とあれば、源氏に執着した時政。晩年を汚したことから、先祖供養の際にも、北条家から名前を外されるケースもあったようです。

そして、時政の次男、伊東祐親に打たれた宗時の弟にあたる北条義時が二代執権として就任するわけですが、実はこの義時が実朝暗殺の黒幕の一人という見方もあり、政子と手を組み、実のオヤジである時政まで追放して利を得ていることから、時政と並んで義時も相当腹黒く、後世の評価もかなり低いようです。

もともと北条氏の歴代当主は彼の嫡男・泰時や曾孫の北条時頼を除いて大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされている

と評される見方もあるようで、どんだけ評判悪かったんだ、とあきれるほどですが、日本を侵略しようとした系譜のDNAが入り込んでいるとしたならば、侵略者として、この性格、性質もわからなくもないところではあります。

なんてことを書いていくと「陰謀論だ」みたいなことを言われてもなんなので、このあたりにしておきたいと思いますが、時政の明確な出自が明らかでない以上、あらゆる可能性はあり得ますね。

なお、評価の厳しい北条家の中でも、3代執権泰時は御成敗式目などを定め、性格もよく、実績を収めた中興の祖として知られますね。

南条家の話に戻る

さて、長くなりましたが、冒頭の南条一族。伊豆から現在の富士宮に移ってからは、源氏だ平氏だ、そんなしがらみの強いところから離れたこともあってか、宗教道まっしぐら、独自路線を切り開いたともいえます。

こんにち、平成の世に通じる、宗教の基盤づくりの大きな一翼を担ったことは確かで、そんな南条氏も平氏の流れを汲んでようで、鎌倉のみならずやっぱり平氏が勝ち?・・・なんて、色々想像をめぐらすと興味深い、歴史物語が、この地、富士宮にも多々あります。

表紙写真:山口県Photo素材集より

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