昭和7(1932)年4月21日20時50分、富士宮(当時の自治体名は富士郡大宮町)で、富士山本宮浅間大社の東側を流れる神田川以東のエリア、栄町付近で出火し、本町・神田町から大宮町駅(現在の富士宮駅)あたりまで、など15町を巻き込んだ 未曾有の大火事が発生したことを、どれだけの人が知っているでしょうか。大宮町大火と呼ばれ、地獄絵図のような様相でした。
(大宮大火・大宮の大火・大宮の大火事等、呼称は様々であるが、本題は富士宮市役所資料を基準として、「大宮町大火」とした)
- 燃え続けた時間:約6時間~7時間
- 全焼した戸数:約1200戸(当時の全戸数約4,000戸の30%が焼失)
- 被災者:約5000人(当時の大宮町の人口約22,000人の22%が被災)
※ただし多くの住民が早期に屋外に避難したため、被災者約5,000名のうち死者1名、重軽傷者は97名でした。
数字を列記しただけでも、その大きさを知ることが出来ます。当時の用水の要である渋沢用水が改修のために水が無かったことから、消火活動に支障を来したことが、被害が拡大した原因であるようです。
渋沢用水は、潤井川から取水し、富丘村(現在の富士宮市淀師他)の中心を通り、浅間大社北川を経て大宮町内、そして現在のニッピの工場や市役所付近を経て再び潤井川に合流する生活用水です。横溝川とも呼ばれています。
富士宮市の歩く博物館の大宮地区の地図にわかりやすいものがあったので引用します。他にも素敵な歩くコースがあるので、興味ある方はぜひ、下記のリンク先を参照して散策してみてください。一冊500円ですが、PDF版は富士宮市役所ホームページから無料でダウンロード、利用できます。
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/llti2b000000152v.html
鎮火後の様子は、まるで空襲にでもあったかのような、目を覆うばかりの惨状でした。この事から、 被災した地域は旧跡の多くが焼失している一方、被災を免れた 富士山本宮浅間大社の西側地域の民家・商家には、江戸時代や明治からの蔵などが現在でも残っている場所の比率が多いようです。
大宮の大火は大々的に全国各地の新聞で報道され、多くの義捐金・物資が集まりました。大宮の人々も結束し、災害復興に取り組みました。
泣きっ面に蜂・町長の死亡と台風被害
しかし、意外と知られていないのが、この4月の大火だけでも未曾有の大災害だというのに、さらに追い打ちをかける衝撃な事柄が立て続けに起きたのです。
この年は大暴風雨が2度も襲来しました。一度目は昭和7年6月3日に発生した豪雨。潤井川の堤防が各所決壊し、潤井川橋、山橋、富安橋など、橋梁も流されてしまったのです。ただ、この時は大火の被災地からは離れた位置だったために、復興には大きな影響が少なく済んだものの、それでも関係者、住民の心労は相当なものでした。
そんな中悲しいお知らせが町を駆け巡りました。当時、復興のリーダーの1人として東奔西走していた大宮町の望月謹八町長が激務により死去(昭和7年8月25日 死去により退任)してしまったのです。後任として久保田貞次郎町長が選任されたのが、一ヶ月後の昭和7年9月20日でした。(参考資料→歴代大宮町長)
新たなリーダーの元、復興に邁進する大宮町でしたが、2度目の暴風雨が襲来しました。昭和7年11月14日。この暴風雨は「悪鬼の所業」と言わしめるほどの規模で、住宅全壊96戸、半壊391戸、住宅以外の物置などは全半壊あわせて353棟の大被害でした。多くの大木も倒れ道を塞ぎ、文字通り、当時の大宮町民にとって悪夢となりました。損害の見積もりは当時の金額で約92,000円という膨大なものになりました。
復興祭
そんな多くの苦難続きの大宮町でしたが、住民も一丸となって復旧に取り組み、 日本全国から義捐金、物資も寄せられ、なんとか立ち上がる事ができました。大宮町大火から2年後の昭和9年5月2日午前11時、大宮小学校校庭において復興記念式典が開催されました。当時の静岡県知事、国会議員など地域内外からの来賓を含めた約1000名に登る出席者のもと、記念式典・大園遊会が開かれ、復興を祝いました。
関連リンク
- 富士宮警察署の沿革(外部リンク)
- 昔日のふじのみや – 富士宮市役所(外部リンク)
- 富士宮柔道のあゆみ(外部リンク)
- 大宮を歩く – 富士お散歩見聞録(外部リンク)
- 浅間神社の門前町から工業都市へ発展した街 – 集落町並みWalker(外部リンク)