富士山や富士宮と織田信長の繋がり、と聞いて、ピンとこない人も多いかもしれませんが、実は、因縁めいた事柄含め、多くのゆかりがあります。
■富士宮と甲州征伐の成功
1582年2月から3月にかけて、織田信長は甲州征伐(現在の山梨県)に向かい、長年のライバルである武田氏と全面的に戦います。
当時の駿河国大宮(富士宮)には武田領、大宮城がありました。(浅間大社の大宮司家、富士氏が支配)武田軍が織田軍に敗れたことで、大宮城の全てや浅間大社の多くは焼け落ちてしまいました。(その後徳川家康によって本殿再建)
信長公記によれば、この甲州征伐の後の凱旋(東海遊覧)の際に、朝霧高原や白糸の滝を訪れたました。信長が腰掛けて富士山を眺め見た「富士見石」が今でも浅間大社そばに残っています。
■徳川家康と穴山梅雪
その後、この甲州征伐の際の宿舎・接待などの協力してくれたお礼にと、駿河の徳川家康と穴山梅雪(元武田家臣から織田に内通)が、5月15日に安土城に招待されます。この時にこの饗応役(要するに今の言葉でいう接待)として対応にあたったのが「明智光秀」であったことは有名な話です。
■本能寺の変と富士宮
そして、それから約二週間後の6月2日、明智光秀の謀反による本能寺の変によって、信長は非業の死を遂げました。ところが、光秀がいくら信長の遺体を探しても見つからなかったと言います。
本因坊算砂の指示で、ここ富士宮市(旧芝川町)にある、西山本門寺の大きな柊の木の根元に埋葬されたという伝説があり、今ではそのエピソードに基づいた信長の首塚があります。
信長の楽市楽座も富士宮と密接な繋がりがあると言われています。というのも、楽市楽座といえば織田信長が最初、というイメージがありますが、近江国の六角氏が初見といわれ、織田信長が楽市令を出す前の直近の楽市が「静岡県富士宮市」です。少なからず影響を与えている、と考えられているわけです。
◆楽市楽座の時期
1:近江国の六角定頼が、天文18年(1549年)居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を出した
2:駿河国の今川氏真が、永禄09年(1566年)04月に富士大宮(今の静岡県富士宮市)の六斎市を楽市とすることを富士信忠(富士大宮司家)に命じた
3:尾張国の織田信長が、永禄10年(1567年)10月に美濃国に楽市令を出した
そんなご縁もあり、15年以上に渡り、西山本門寺で信長公黄葉まつりが開催されています。
火縄銃の演武もあったりして毎年人気です。
富士宮の歴史の奥深さには興味をかき立てられますね。