富士山本宮浅間大社の概要・トリビア
- 富士山の大噴火によって荒廃していた皇紀630年前後(=紀元前30 年前後)の日本。11代目天皇、垂仁天皇がこれを憂いた、山麓で祭祀を行ったことが起源と言われ、コノハナサクヤヒメ(木之花咲耶姫)が祭られている。(祈ってみんなで元気になろうぜ、って鼓舞したとも言える。)
- もっとも、設立当時から女性の神が祀られていたかどうかは不明である。富士宮市史(旧)には、それについて衝撃の調査研究結果が掲載されているので、ぜひご覧頂きたい。ここではあえて書きません。
- さらにそこから100 年以上後、日本武尊(ヤマトタケル)が東征で賊徒に襲われた際、富士浅間大神に祈念して賊徒を打ち払うことが出来たことから、平定後、浅間大神を祀ったのが山宮浅間神社。(山賊あいつらやべー!半端ないって!何とかしたいけどとりあえず祈ってみようぜ。願えば叶うだ!って、めっちゃポジティブスイッチオン!ということで、東征御一行様を鼓舞したとも言える。そして叶っちゃった。)
- 806年に平城天皇の命で、当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂(あの清水寺も創建した偉い人)が大宮の地に大規模な社殿を造営し、山宮から大宮にお引越し(遷座)しました。(坂上さん、日本中、天皇の無茶振りで西へ東へ、仕事一杯忙しー人だったけど、期待に答えていい仕事はしている。やっぱり、仕事は忙しい人に頼んだほうが良いもの出来たりするのは今も昔も変わらないかもしれない。)
- 806年のお引越しの時、実は今の浅間大社の場所には「富地神社(ふくちじんじゃ)」が建っていた。しかし、天皇の命令ともあれば、ということで富士山本宮浅間神社に譲って、少し北西の位置に福地神社はお引越して現在もあります。なお、この福地神社の祭神はオオヤマツミ(大山津神・大山祇命)で、コノハナサクヤヒメのパパです。(よーし、パパ、かわいい娘の為なら頑張っちゃうぞー、後ろから見守るぜ!と思っていたかどうかはわからないが、エピソードとしては完璧である。)
- 1から4の出来事、特に1と2は、社伝『富士本宮浅間社記』と、天応元年(781年)の『続日本紀』とで色々食い違いがあるが、誰も検証のしようがない。
- 江戸時代、徳川家康によって、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿が造営されました。(さすがにボロくなってきてたんで、日本の象徴富士山を祭る神社の本殿くらい、縁起良くフルリニューアルするぜ!とやる気を出したようである。)
- 全国に1300社ある「浅間神社」の総本山で、世界文化遺産の構成資産にも指定されています。
- 本宮は富士宮市の市街地のど真ん中にありますが、「奥宮」は富士山頂にあります。
- 富士山の8合目以上は、富士山本宮浅間大社の所有となっています。
- 明治時代には「富士山本宮浅間神社」が正式名。現在の「大社」の名称になったのは実は比較的最近で、2642年(西暦1982年・昭和57年)から現在の「富士山本宮浅間大社」となった。そんな経緯もあり、昭和前半までの世代はみんなおおよそ、浅間大社とは呼ばず、略称として「浅間」さん、または普通に「浅間神社」と呼ぶことが多い)
- 「富士山本宮」に対して、「冨士(山)新宮」もある。新宮は「静岡浅間神社」の事を指します。
天皇の系譜のルーツ「コノハナサクヤヒメ」が祭神
祭神は「コノハナサクヤヒメ」で、夫のニニギノミコトとの間に3 人の子が産まれます。ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)で、三男の山幸彦が初代神武天皇の祖父にあたります。
いずれも、神話や後世の記録に基づくものが多いため、100% すべて史実かどうかは確かめる術がありませんが、古代日本の創建に関わったエピソードが、富士山や富士山本宮浅間大社にある、ということは非常に壮大なロマンを感じるところです。
富士宮市の市名は浅間大社があった事から決まった
富士山本宮浅間大社は、古来から「富士ノ宮」「富士本宮」「富士大宮」「富士浅間宮」など、色んな呼び方の記録があります。それもあり、富士宮市の前身は「富士郡大宮町」でした。市制施行の時に、埼玉県大宮市(現さいたま市)と名前がかぶることから、なにか良い名前を、という中で、「ふじのみや」が呼称として選ばれ、「富士の大宮、すなわち富士宮」ということで市名として命名されました。